2009/01/31

嘘と夢

新宿のバー、カウントゼロで秦雅則の「グッナイ遊び言葉&おはようネオカラー」展が行われている。

遊び言葉とは、モノクロ写真の上に、ミスプリントを文字や図形に切り貼りし、全体に着彩を加えたものである。このシリーズは以前より、可笑しみ、軽みを増し、明るくなった印象を与える。それはイメージ的にという事もあるが、そこに貼り付けられた言葉の軽さからも発せられるものではないかと思う。以前は作家の現実感を捉えた言葉が多かった。今回それは、誰から発せられたのかも分からない記号に近づき、意味すらも剥奪されて単なる擬音・ビジュアルに転化され、より表面性を重視した展開となった。このシリーズは内奥に収束する点を持たない。延々とその表面に意味を拡散させる一方である。その中で行われているのは、彼の言葉を借りれば肯定と否定、ということになるだろう。自分を肯定する否定する対象を肯定する否定する。その膨大なグレーゾーンをくぐって生成する感情が両極端に突出した形で表出されているのがこのシリーズだと思う。

そして
おはよう、
ネオカラー。
朝が来た。
ここにはもはや肯定も否定もない。
艶めかしい色の世界がそこに。
グレーに着彩するのでなく、
そのものの発色を受け容れるという危うさも孕みながら。

僕たちが生身の身体ひっさげて、右往左往しながら見ているもの。
これは嘘の混じった現実なのか。
それとも色のついた夢なのか。

2009/01/27

見ること・守ること

薄い布団に身を横たえながら、僕は傍にいる人を見ている。その人は四肢を自由に動かすことができない。話す言葉も限られている。時折、うなされているかのように大きな声をあげることがある。眠っているあいだも、感情は止まらないのだろうか。
答えは無いし、求められてもいない。
彼の眠りを守るのが僕の仕事だ。

あなたは何を考えているの?
何を笑っているの?
何を見ているの?
何を伝えたいの?

そして僕は何を守りたいの?

2009/01/13

空白というサービス

朝、近くのファミレスに行く。モーニングA・目玉焼きセット。たまに一人で朝食を食べるのが嫌になる。
さて、今日来てみると何か様子が違う。さりとて模様替えしたわけでもないし、メニューも同じ。注文してしばらくたってから気付いた。BGMが無い。
よくスーパーで聞く、茶化したようなクラシックがいつもかかっていたのだ。新入りの店員がスイッチを入れるのを忘れたのだろう。
静かだ。だれも話さない。皿の触れ合う音、新聞をめくる音が聴こえる。大窓から見える木には、水平に日が当たっている。行き交う車のフロントガラスがきらきらと反射する。空白を無意味に埋めていたものが無くなるだけで、メニューのカロリー表示なんかより、よっぽど現実が見えてくる。
場の雰囲気を作るために、大味の調味料がまぶされていた。誰もに受け入れられるために、誰にも分からないものを添加するのは止めればいいのに。そして自分を戒める。 

2009/01/11

善と悪

イスラエルによるガザ地区への無差別攻撃が止まない。パレスチナ側の非力なロケット弾に対しての報復としてはあまりに規模が大き過ぎる。そもそもパワーバランスにおいて圧倒的に優位なのはイスラエルなのだ。
そしてアメリカは国連の停戦要求決議を棄権。またも骨抜きにしてしまった。シナリオに沿って事は進んでいる。彼らは他国の意見を一顧だにせず、正義を振りかざす。

善悪について考える。
本来それは周囲との相対的な価値観であると思う。私たちは通常、自らの知識や経験をもとに行動する。それが責任ある判断であり自由である。そこに絶対的善悪はないはずだ。「私はこんなに善いことをした」とも言えないし「私の悪が許せない」とも言えない。(それを言わせることで人間をコントロールすることもできるが)それはどこか滑稽だ。
彼らが求めるのが理ではなく利だとすれば合点がいく。神とはすなわち国益なのだから。その神の名において善悪を定め伝家の宝刀 "正義" を引き抜く姿は、先の例と同じように滑稽に映らないだろうか。こういう者こそ"ならず者"と言うのではないだろうか。善と悪の決定権をも自ら握ってしまったとき、人はその不可能性に沈黙するか、圧倒的な力に狂い出す。

本当に神が存在するとすれば、1000年先の未来を見越すだろう。人は滅びるまでに、自ら善悪の権利を手放すことができるのだろうか。

2009/01/05

09年始

2009年も明けました。
年始早々風邪を引いてしまいひどい目に遭ったものの(これは自業自得)ようやく社会復帰できました。
今年もどうぞよろしくお願いします。

動けず横たわっていると、内面と外界の壁が薄くなってくるのか、自分の手の届くところにあるものが妙に訴えかけてくる。病牀六尺の世界である。

そういって手当たり次第に読み出したのは
椹木野衣「なんにもないところから芸術が始まる」
養老孟司×内田樹「概念化する世界の読み方」
日野晃「武学入門」
宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」
・・・
見事にバラバラ。
どこぞの学者が、本は積んでおくだけで、本当に必要なときはそれが目の前にころがってくると言っていたっけ。(これは我田引水)

「悟りといふ事は如何なる場合も平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」正岡子規

さすがに二日三日でそこまでは悟れず、「風邪は引かないにこしたことはない」などと当たり前の事を痛感した年始でありました。