あるいは海のように
新宿オペラシティで行われている「Trace Elements」を観た。
日豪の写真メディアにおける精神と記憶ということである。物質感をあらわにしたゼラチンシルバープリントからビデオインスタレーションまで、最近の映像を取り巻く状況をマッピングして俯瞰できるようになっている。
見終わって、インタラクティブとはなんぞや、という疑問が起こった。何回かに分けてこのことについて考えていきたいと思う。
私がそのことを意識し始めたのは、今回の出品作家の一人、古屋誠一の数年前の写真展「Aus den Fugen」であった。以下、お蔵入りにしていたその時の文章です。
あるいは海のように
古屋誠一展「Aus den Fugen」 ヴァンジ彫刻庭園美術館(静岡県長泉町)
一人の女性が写真の中からこちらを見つめている。時に微笑み、時に泣きそうな表情を浮かべながら、ただまっすぐこちらを見つめている。その視線の先には写真家であり夫であった古屋誠一がいた。”夫であった”と過去形で話さなくてはならないのは、ある日、彼女が自ら命を絶ってしまったからである。継続して続けられてきたこれらの記録は、「死」という断絶をもってぷつりと途切れてしまう。そのことを鑑賞している僕は知っている。知りながらこれら「遺影」と向き合うことになる。
写真はあきれるほど饒舌で、しかし肝心なことに関しては何も語ってくれないメディアである。その平面に定着された像を凝視するうちに、いつしか鑑賞という高みから引きずり下ろされ二人の関係に没入してゆく。
写真に遺された一瞬一瞬は生に満ちている。そのことが「死」という存在をより強く意識させる。生を見つめながらも意識は越えようもない深い断絶の中へ引き込まれてゆく。
やがて、どこからか賛美歌が流れて来た。演出かと思っていたら、どうやら同じ建物の中にあるチャペルで、偶然、結婚式が行われているらしい。一つの空間の中で結合と別離が交錯する。
賛美歌は流れ続ける。妻が死んでも写真家の生は続く。何かの手がかりを探るように、朽ちたウサギ、燃えさかる炎がフレームに収まる。これは断絶なのだろうか。何か別の光が焼き付けられているのではないか。
突然、一段と大きい拍手が鳴り響く。大勢の祝福を受けながら夫婦になったばかりの二人が姿を現した。
"ありがとうございます"
花嫁の言葉は、この夫婦が二人のみによって生まれたのではないことをあらわしている。このチャペルにおいては神によって、そして、ここに集ったものたちによって認証され、今、成立した。
そうなのだ。写真家の妻の存在も、大勢の人によって観られ、看取られ、その性質をゆるやかに変えてゆく。死は断絶ではない。新しい関係性の始まりなのだ。
外へ出ると春めいた日差しが眩しい。生まれたばかりの夫婦に花びらが降り注いでいる。やわらかい日差しに照らされて、その光景はこの世のものではないようだ。しばし茫然と立ちすくんでいた。
記念撮影が始まる。ふと全ての写真は遺影であることに気付く。写真は一瞬ごとに現在を過去に変換しながら、しわがれた手によって繰られる時を待っている。彼岸と此岸。豊饒なイメージを湛え、二つの岸を写真の海が同時に満たしている
日豪の写真メディアにおける精神と記憶ということである。物質感をあらわにしたゼラチンシルバープリントからビデオインスタレーションまで、最近の映像を取り巻く状況をマッピングして俯瞰できるようになっている。
見終わって、インタラクティブとはなんぞや、という疑問が起こった。何回かに分けてこのことについて考えていきたいと思う。
私がそのことを意識し始めたのは、今回の出品作家の一人、古屋誠一の数年前の写真展「Aus den Fugen」であった。以下、お蔵入りにしていたその時の文章です。
あるいは海のように
古屋誠一展「Aus den Fugen」 ヴァンジ彫刻庭園美術館(静岡県長泉町)
一人の女性が写真の中からこちらを見つめている。時に微笑み、時に泣きそうな表情を浮かべながら、ただまっすぐこちらを見つめている。その視線の先には写真家であり夫であった古屋誠一がいた。”夫であった”と過去形で話さなくてはならないのは、ある日、彼女が自ら命を絶ってしまったからである。継続して続けられてきたこれらの記録は、「死」という断絶をもってぷつりと途切れてしまう。そのことを鑑賞している僕は知っている。知りながらこれら「遺影」と向き合うことになる。
写真はあきれるほど饒舌で、しかし肝心なことに関しては何も語ってくれないメディアである。その平面に定着された像を凝視するうちに、いつしか鑑賞という高みから引きずり下ろされ二人の関係に没入してゆく。
写真に遺された一瞬一瞬は生に満ちている。そのことが「死」という存在をより強く意識させる。生を見つめながらも意識は越えようもない深い断絶の中へ引き込まれてゆく。
やがて、どこからか賛美歌が流れて来た。演出かと思っていたら、どうやら同じ建物の中にあるチャペルで、偶然、結婚式が行われているらしい。一つの空間の中で結合と別離が交錯する。
賛美歌は流れ続ける。妻が死んでも写真家の生は続く。何かの手がかりを探るように、朽ちたウサギ、燃えさかる炎がフレームに収まる。これは断絶なのだろうか。何か別の光が焼き付けられているのではないか。
突然、一段と大きい拍手が鳴り響く。大勢の祝福を受けながら夫婦になったばかりの二人が姿を現した。
"ありがとうございます"
花嫁の言葉は、この夫婦が二人のみによって生まれたのではないことをあらわしている。このチャペルにおいては神によって、そして、ここに集ったものたちによって認証され、今、成立した。
そうなのだ。写真家の妻の存在も、大勢の人によって観られ、看取られ、その性質をゆるやかに変えてゆく。死は断絶ではない。新しい関係性の始まりなのだ。
外へ出ると春めいた日差しが眩しい。生まれたばかりの夫婦に花びらが降り注いでいる。やわらかい日差しに照らされて、その光景はこの世のものではないようだ。しばし茫然と立ちすくんでいた。
記念撮影が始まる。ふと全ての写真は遺影であることに気付く。写真は一瞬ごとに現在を過去に変換しながら、しわがれた手によって繰られる時を待っている。彼岸と此岸。豊饒なイメージを湛え、二つの岸を写真の海が同時に満たしている
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