2008/09/18

物語・一人語り

森美術館で開催されている、アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち、を観た。厭な夢を見たあとの、あの寝覚めの悪さ、そして安堵感が残った。まだ私は、こちら側にいてもいいのだ。

内蔵を思わせるぬいぐるみが痙攣を繰り返している。ねじられ、引っ張られ、不自然に変形してゆく。そこに何を見るか。死の必然か、不自然な生か。私たちがかつて親しんだ童話「ピノキオ」や、現代生活を脅かしている「狂牛病」など、様々なものが底流にある。この展示はそれらを解体・生成させながら延々と紡ぎ出される、現代の寓話だ。

それにしても、訪れた人たちの三分の一くらいは、音声ガイドのデバイスを片手に作品に接している。確かに正確な情報を知りたいという気持ちはわかる。作者の正式な見解や、識者の批評は私たちの理解を助けてくれる。

理解?!

生から死に至る私たちの物語の中に、果たしてそんなものが存在しただろうか?共感、反感、予感、猜疑・・・グレーゾーンにあるものばかり。少なくとも私の場合はそうだ。完全な共感を理解と呼ぶのか。双子でもそれは無理だ。たぶん。いや、これはきっかけ、とっかかりなのだと思う。でも、定説としての物語ならいらない。

古来の寓話は理解とは程遠いところで終わる。善悪の判断が曖昧で心の中がもやもやする。赤ずきんは食べられる。キリギリスを誰も助けてくれない。ライオンが肩を聳やかす。

なぜ?!

それでもハッピーエンドのハリウッド映画ばかりを見せられるよりましだ。たとえ悪夢であっても、私たちには、私たちの自身の物語を疑似体験する場が必要だ。

壁ににだらんとかけられた、クマのぬいぐるみがある。
「これなーに」
女の子が反射的にそれに触れ(てしまっ)た。両親は叱ったが、そこからこそ彼女の本当の物語が始まるのだ。