2008/09/10

本を引く

先日、八幡山にある大宅壮一文庫へ行ってきた。彼は生前、雑誌・週刊誌を蒐集していたのだが、その遺志を引き継いで、現在までに69万冊が所蔵されるに至った。もともとこの類の本は「読み捨て」の傾向が強く、あまり後世に残されることはない。しかし専門書と違い、その時代の空気を一杯に纏った貴重な資料であることを見抜き、集めるばかりでなく一般に公開しているのだから、その志には頭が下がる。閲覧と複写で料金が発生するが、昼食を1回抜いても訪れる価値は充分にある。

この文庫の主役はもちろん本というモノなのだが、要(かなめ)は総目録とコンピューターにより体系化されたデータベース、そしてその検索システムだと言えるだろう。そもそも雑誌というのは、専門分野から雑事まで幅広い分野の記事の集積である。専門書のように書名だけで検索するわけにもいかない。表紙に載るような特集記事から末端のコラムに至るまで、人名・件名・テーマなど470万件の索引から検索可能なのだからすごい。 

そうやってある写真について調べていたのだが、実際に本を手に取ってみると記事はしょうもなくて、隣ページの「ニューヨーク書店事情」の方がおもしろかったりすることもある。これは、画面の上だけでは起こりえなかったことで、紙が編まれた本という形式ゆえに演出されたおもしろさだ。

結局、精緻な検索システムによって提供されるデータと、アナログな物質としての本は、どこかで補完しあっているのではないだろうか。かなりの精度でお目当ての回答に辿り着くことができたとしても、完全な解を与えられたような気になってしまっては、知的には行き止まりである。その先は自ら探さなくてはならない。システムが高度化するにつれてますます、検索から思索への移行が求められている。そのきっかけは、身体を通して得たひらめきであったり、偶然であったりする。