2009/03/05

引越し

もう三月。
不意に寒くなったりもするけど、
日々、庭に鮮やかな緑が差してきている。

今日はよい天気。
ちょいとこの部屋も狭くなってきたので、
思い切って引越しをしよう。
間取りがあんまり変わらないって?
だいぶ日当たりが良くなったと思うんだけど。

http://mikiyoshikazu.blogspot.com/

登録変更、お願いします!

2009/02/28

最終日

たくさんの人が来てくれました。

オガワさん、開店前より来てくれてありがとう。
良い夢は見られたでしょうか。

ハヤシさん、いつもお世話になっています。
明るい部屋もよろしくお願いします。

タカノリ君、これから仕事だというのに来てくれてありがとう。
今度キミさんの送別会も兼ねて食事会しませんか?

トミタさん、自転車で来てくれてありがとう。
夜の甲州街道はどうだったでしょうかね。

ハナちゃん
チッピーさん
ハピチピチョコありがとう。
制作秘話も大変に興味深く。

そして、カウントゼロのドン・ファン・マトゥスことマコトさんに
心よりの感謝を。

2009/02/27

あと二日

さっき仕事が終わって、いざ新宿へ。電車にグラグラ揺られている。

カウントゼロでの展示もあと二日。情を排したドライな展示にした。一方で自らはずぶずぶと情の世界に足を踏み入れて、愛している、とか、言ったりした。

それはどちらも本当で、そして、どちらもまだまだ足りない。

あ、新宿。

2009/02/08

道を尋ねる

先日、神楽坂のアユミギャラリーで行われている、青柳龍太さんの展覧会「monolith」を見にいった。まだ開催中なので詳しくは述べないが、"真実ということ" をきっかけとする展示である。

僕は彼がどんなことを考えているのか知りたくて、なに・なぜ・どうして・・・と質問してしまい、困らせてしまった。概念を直接扱うデリケートな行為に対しての過度な説明は、"理解" という別なものにすり替わってしまいかねない。無い物ねだり。海の上で道を尋ねてしまったのだった。

そこにあるのは風と波。空と雲。私たちはそれを感じ、また、意味を再生する力があるということだけだ。

小さな悟り2

闇夜を行く編

その昔、ボーイスカウトに所属していたことがある。社会奉仕や野外活動を通じ、健全で集団活動に適応した青少年の育成を目的とする組織である。そこで誠実かつ快活に日々研鑽を積んでいたのであるが、最終的には不健康かつ蒙昧な大人になってしまった。何があったのか、なんて聞いちゃいけない。

野営中、夜中にたたき起こされた。とにかく集合、とのこと。突然、夜間ハイクを行うというのだ。眠い目をこすりながらモールス信号と手旗信号を解読して目的地を特定する。口で伝えりゃいいじゃん、なんて言っちゃいけない。メッセージはただ伝わればいいってものじゃないのだ。

尾根、沢、一つ読み間違えると大変なことになってしまうので必死であった。地図・コンパス・ヘッドランプの明かりだけで、とにかくそこを目指す。真っ暗である。眺めがいいとか、行程が面白いとかの問題ではない。ただその場所に着くのが目的である。枝やら藪やらにひっかかっていくつも傷が出来た。

夜明けにようやく辿り着き、大人達がくれたものは、「はい、ご苦労さん」という言葉だけ。拍子抜けだった。知恵と勇気を振り絞って歩いてきた結果がこれだ。ちょっとグレた。

最近になって "そういうものか" とも思う。死ぬ間際だってそうじゃないのかな。誰かに "ご苦労さん" と言ってもらえれば、上出来なのでは。

2009/02/06

前略 カウントゼロにて



2月14日より28日まで行われる私の個展 "人像 (ヒトガタ)" が行われます。

 会期 :2009年2月14日(土)〜 2月28日(土)
 会場 :Bar countzero
 〒160-0022 東京都新宿区新宿3-7-9 新宿土地建物第六ビル 三階
 新宿駅から新宿通りを東に、新宿三丁目の交差点を越えて二筋目(マルイシティ1の向かい)を左へ。一筋越えたところにある駐車場付近から左手足下を注意して下さい。看板が出ています。
 TEL :03-3351-0910
 営業時間 :19:00〜Morning
 定休日 :日曜日
 料金 :チャージ\300、お酒\700〜、ソフトドリンク\500
 URL : http://countzero.jp/

私は14日(土)・20日(金)・21日(土)・27日(金)・28日(土)にお店にいます。
時間は前後しますので、もしお越しになる際は、ご一報頂ければなお有り難いです。

070-5669-8115
miki-441@pdx.ne.jp

それでは皆さんのお越しをお待ちしております!

草々

2009/02/04

小さな悟り 1

男の背中編

先日新宿Yカメラ5Fのさびれかけた暗室用品売場に行ったところ、現像バット(トレイのようなもの)の棚の前で悲嘆に暮れているレトロな雰囲気の女の子に遭遇した。「お嬢さん、こんな所にいると危ないよ。」するとその人は、あの破天荒アートユニット、Happy Chippyのチッピーさんであった。

偶然の再会を喜び合い、どのサイズを買うべきか議論して、勢いが大事だとの結論に。結局僕は大きなバットを買い、彼女はそれよりは少し小さなものを買った。大きな荷物を抱えて歩いていると「後ろ姿がロボットみたいですね」と言われる。そうかー。後ろ姿って、自分が思ってるのとは全然違うように認識されているものなんですね。

2009/02/02

月曜はゴミの日

僕は受け容れてきた美意識を捨てたい。
ただ、虫のように生きたい。

2009/02/01

拝啓

二月に入り、梅もちらほら咲き始めたようですが、寒さはますます厳しく感じられる今日この頃。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

さて、来たる2月14日 (土)より二週間ほど、新宿のバー・カウントゼロにおきまして、私の展覧会を催す運びとなっています。東京においては初の個展となり、皆様には是非ご高覧いただけますことを願っております。

詳細は追ってご連絡します。
ではこれにて。

敬具

平成21年2月1日

三木義一

2009/01/31

嘘と夢

新宿のバー、カウントゼロで秦雅則の「グッナイ遊び言葉&おはようネオカラー」展が行われている。

遊び言葉とは、モノクロ写真の上に、ミスプリントを文字や図形に切り貼りし、全体に着彩を加えたものである。このシリーズは以前より、可笑しみ、軽みを増し、明るくなった印象を与える。それはイメージ的にという事もあるが、そこに貼り付けられた言葉の軽さからも発せられるものではないかと思う。以前は作家の現実感を捉えた言葉が多かった。今回それは、誰から発せられたのかも分からない記号に近づき、意味すらも剥奪されて単なる擬音・ビジュアルに転化され、より表面性を重視した展開となった。このシリーズは内奥に収束する点を持たない。延々とその表面に意味を拡散させる一方である。その中で行われているのは、彼の言葉を借りれば肯定と否定、ということになるだろう。自分を肯定する否定する対象を肯定する否定する。その膨大なグレーゾーンをくぐって生成する感情が両極端に突出した形で表出されているのがこのシリーズだと思う。

そして
おはよう、
ネオカラー。
朝が来た。
ここにはもはや肯定も否定もない。
艶めかしい色の世界がそこに。
グレーに着彩するのでなく、
そのものの発色を受け容れるという危うさも孕みながら。

僕たちが生身の身体ひっさげて、右往左往しながら見ているもの。
これは嘘の混じった現実なのか。
それとも色のついた夢なのか。

2009/01/27

見ること・守ること

薄い布団に身を横たえながら、僕は傍にいる人を見ている。その人は四肢を自由に動かすことができない。話す言葉も限られている。時折、うなされているかのように大きな声をあげることがある。眠っているあいだも、感情は止まらないのだろうか。
答えは無いし、求められてもいない。
彼の眠りを守るのが僕の仕事だ。

あなたは何を考えているの?
何を笑っているの?
何を見ているの?
何を伝えたいの?

そして僕は何を守りたいの?

2009/01/13

空白というサービス

朝、近くのファミレスに行く。モーニングA・目玉焼きセット。たまに一人で朝食を食べるのが嫌になる。
さて、今日来てみると何か様子が違う。さりとて模様替えしたわけでもないし、メニューも同じ。注文してしばらくたってから気付いた。BGMが無い。
よくスーパーで聞く、茶化したようなクラシックがいつもかかっていたのだ。新入りの店員がスイッチを入れるのを忘れたのだろう。
静かだ。だれも話さない。皿の触れ合う音、新聞をめくる音が聴こえる。大窓から見える木には、水平に日が当たっている。行き交う車のフロントガラスがきらきらと反射する。空白を無意味に埋めていたものが無くなるだけで、メニューのカロリー表示なんかより、よっぽど現実が見えてくる。
場の雰囲気を作るために、大味の調味料がまぶされていた。誰もに受け入れられるために、誰にも分からないものを添加するのは止めればいいのに。そして自分を戒める。 

2009/01/11

善と悪

イスラエルによるガザ地区への無差別攻撃が止まない。パレスチナ側の非力なロケット弾に対しての報復としてはあまりに規模が大き過ぎる。そもそもパワーバランスにおいて圧倒的に優位なのはイスラエルなのだ。
そしてアメリカは国連の停戦要求決議を棄権。またも骨抜きにしてしまった。シナリオに沿って事は進んでいる。彼らは他国の意見を一顧だにせず、正義を振りかざす。

善悪について考える。
本来それは周囲との相対的な価値観であると思う。私たちは通常、自らの知識や経験をもとに行動する。それが責任ある判断であり自由である。そこに絶対的善悪はないはずだ。「私はこんなに善いことをした」とも言えないし「私の悪が許せない」とも言えない。(それを言わせることで人間をコントロールすることもできるが)それはどこか滑稽だ。
彼らが求めるのが理ではなく利だとすれば合点がいく。神とはすなわち国益なのだから。その神の名において善悪を定め伝家の宝刀 "正義" を引き抜く姿は、先の例と同じように滑稽に映らないだろうか。こういう者こそ"ならず者"と言うのではないだろうか。善と悪の決定権をも自ら握ってしまったとき、人はその不可能性に沈黙するか、圧倒的な力に狂い出す。

本当に神が存在するとすれば、1000年先の未来を見越すだろう。人は滅びるまでに、自ら善悪の権利を手放すことができるのだろうか。

2009/01/05

09年始

2009年も明けました。
年始早々風邪を引いてしまいひどい目に遭ったものの(これは自業自得)ようやく社会復帰できました。
今年もどうぞよろしくお願いします。

動けず横たわっていると、内面と外界の壁が薄くなってくるのか、自分の手の届くところにあるものが妙に訴えかけてくる。病牀六尺の世界である。

そういって手当たり次第に読み出したのは
椹木野衣「なんにもないところから芸術が始まる」
養老孟司×内田樹「概念化する世界の読み方」
日野晃「武学入門」
宮沢賢治「セロ弾きのゴーシュ」
・・・
見事にバラバラ。
どこぞの学者が、本は積んでおくだけで、本当に必要なときはそれが目の前にころがってくると言っていたっけ。(これは我田引水)

「悟りといふ事は如何なる場合も平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」正岡子規

さすがに二日三日でそこまでは悟れず、「風邪は引かないにこしたことはない」などと当たり前の事を痛感した年始でありました。

2008/12/21

パーティー in the office

この一週間、自分の部屋にほとんど帰ることが出来ないくらいの大忙しで、かなりグロッキーになっていた。で、最後に行き着いた場所は明るい部屋(オフィス)。
ここではメンバー二人の写真展が行われているのだが、すでに足の踏み場もないほどに職種や人種を越えた人々が集まっていた。熱気やテンションが限界を超えた夜半あたりからは、展示されている写真がはらはらと舞い落ちてくるような状態。あぁ浮世の儚さよ。
話すは、寝るは(寝すぎ)、笑いあり、涙あり(笑いすぎ)。それぞれが散々楽しんだ挙げ句、僕も夜明けに静かに意識を失ったのでありました。
来てくれた皆さん、ありがとう。

2008/12/07

劇的な出来事

カメラを抱えて新宿を歩く。
帰り際、J書店の前に来て、そうそう、人にあげたい本があったんだと思い出す。
で、結局二冊買ってしまう。もう一冊は衝動買い。どちらも演劇関係の本だ。

自分が今生きていることと
誰かの記憶を追体験すること。
誰かの創作を受け容れること。
その交点に強烈な磁場が発生している。
交点がブレると、劇は猿芝居になり、写真は記号となる。

なんて、飯の種にもならないことを考えていると、突然後ろから声を掛けられる。
ロンドンでお世話になっていた方と三年ぶりにばったり再会。二時間ほどお話を伺う。

全く意図できない、何者かに引き寄せられたような、出会い。
劇的な出来事なんて、手垢のついた言葉だけれど、
それは僕自身ががんじがらめに作った、リアリティとやらの意味を手放すための、全くの幸運なのだ。

2008/12/06

現像すること 再生されるもの

現像液を作る。
手間がかかる。
デジタルだったらパソコンに繋ぐだけなのに。
でも、画像が再生されるまで5秒と待てないのに、
写真の現像を待つ5分が待ち遠しいのはなぜですかね。

何かを思い起こしている。
何かに取り憑かれている。
何かが変化している。

例えば、
小説を何度も読むこと
彼がボブディランを何回も聴くこと
祖母が戦争の話を繰り返し何度も話すこと
に似ている。

身体を介すること=効率が悪いことになりつつある。
でも、現実を受け容れるとか、
それを伝えるとかっていうことは、
最終的には身体レベルでしかできないことだから、
何かを伝えたいとすれば理にかなっているはず。

それにしても、8Lは重い。

2008/12/04

西宮

ペダルを踏み込み加速しながら、急な坂道を登る。
足が重くなって、少しも漕げなくなったところが堤防のてっぺんだ。

高圧線が悠々と空を横切っている。
近くの空港を飛び立った飛行機が急旋回していく。
目の前を青いジャージを着た中学生の一団が走っていく。
川の真ん中でブルドーザーが土を持ち上げている。
二十分ほどで病院に到着する。

母の手術は終わった。
めくれた布団から足の先が見えている。
目はかすかに開いている。
こちらの方を見て少し頷いたような気がする。

病室、まだあまり話はできない。
帰り際に小さく手を振っている。
僕も手を振りながらシャッターを押す。
力を与えるために。
新しい現実を作るために。

家族、という最も触れられなかったものに
僕は他者として力を加える。
それは暴力と受け取られるかも知れない。
壊れてしまうかも知れない。
取り返しがつかないかも知れない。
でも、必要なのは力と熱だと確信している。

それぞれと話をする。
一言残さず言葉を聞く。
瞬間瞬間、自分の中に生まれる現実を表現する。
涙が出るまで。

息が切れるまで、今日も思い切りペダルを踏み込む。
いよいよ明日は東京だ。

2008/11/27

現在地

血眼になって探しても
その地図には載ってやしないよ
時間を測る目盛りはないし
私たちの存在を表す記号だってないんだから

もし自分がどこにいるのか知りたいのなら
見たもの聴いたもの
目の前にあることについて
語るしかない

石ころ

立ちはだかる山腹
土の匂い
逢いたい人


私たちは科学技術という踏み台に乗っかって
神の視点を得たような気持ちになっているけど
どんなに崇高な宗教画も
神自身の存在を表すことが出来ないように
すっぽりと大事なものが抜け落ちている

GPSやインターネットが無くても、
例えばある一編の詩から、一葉の写真から
世界を語る事ができる
たとえそれが不完全で誤謬に満ちていても

もう一度
いや何度でも
その言葉を伝えることが
私たちの口と手に与えられた使命だ
伝えることが現在地そのものなのだから

2008/11/08

枠は挑発する

朝から14時間働いて、家でパソコン作業して、
でもあんまり疲れは無くって、
アヤシゲな物質が脳内で分泌されていそうな夜明け前。
24時間戦えますか?
あっつい玄米茶をすすりながら新しいギャラリーのロゴを見る。
いろんなことを思いつつ。

言葉を話したり、歌を歌ったり、
あろうことか写真を撮ったりなんかしながら、
人はせっせと枠を作り続けている。
なんで自由なままにしておかないのかね?
そもそも枠って何?

規定するもの。
はやりの勝ち組・負け組だとか、誰かが決めた枠があるのは、その中に入ることで安心したいから。偶像にあえて自らを当てはめることで、名付ける方も名付けられた方も満足できるから。自分はビョーキだって思うことで気が楽になるような、甘え。規定されるって楽だもの。入れ子になっている方が分かりやすいんだもの。トラウマやら、しがらみやら、逃れたいと言うわりに人はそれが好きなのだ。怖いのは無意識にその枠にはまっていること。

挑発するもの。
どの時代にも目に見えるもの、言葉で話せること以外の世界を表現していた人がいる。芸術家・作家・舞踏家・シャーマン・・・呼び名はいくらでもあるけど、その人達は自分のコアとなる最小の枠を見つけて、そこから広い世界を垣間見たんじゃないだろうか。木の実一つ、草一本の存在から、世界の地図を描くアボリジニの"ドリーミング"のように。既に与えられているもの、残されたものから、未知の感覚を得るための、小さくても確固とした枠を創造できた者の軌跡が、時代を超えて僕たちを挑発する。
自由ってどういうこと?

枠を見つけること
枠を共有すること
枠を通して見えるもの

それが、僕の自由

www.akaruiheya.info

2008/11/06

夜があんまり寒いので

ずいぶんと痩せ我慢していたのだけれど、とうとう冬用のジャケットを出してしまった。
かれこれ4年くらいは着ている。一向にボロを出す気配がないので、冬期純正装備品となった。

これさえ着れば日本中どこでも行けちゃう安心感。
雨・風・バイク、どんな状況でも身を濡らさず守る責任感。
シーズン終わりにはヨレヨレになってるけど、クリーニングに出せばしっかり復活、立体感。

なんだか古女房のような。
今年の冬も貴方がいればこそ。

2008/11/05

膝が笑う

いやはや、
数日前の盲目的遠征やら、昨日の献身的労働やら、
笑ってしまうのである。
膝が。

突然だが、感情って膝から生まれるんじゃないだろうか。立つ、歩くといった基本的動作の他にも、僕にとって膝は、何やら重要な役割を果たしている。

話をするとき、話を聞くとき、目を合わせるとき、手をさしのべるとき。それを単に記号としての動作にするのか、全身を傾けた所作にするのか。その意識の分かれ目が膝にあるような気がするのだ。

日本語には身体の部位を使った慣用句がたくさんあるけれども、"膝"は地味ながら"目"にひけを取らないほど用法が多い。

膝が抜ける
膝を崩す
膝を叩く
膝を屈める
膝を折る
膝を組む
膝を進める
膝を抱く
膝を乗り出す



膝が笑う

膝は動作の起点であり、感情の表れである。ある対象と全身をもってコミットするというとき、感情を働かせるスイッチのように、膝は関わっている。

あなたの膝は笑っているか?

2008/10/31

秋風

廃品回収車が二台連なって北の方角へ走っていく。
しかも音量全開で。
それも猛スピードで。

そもそも、そんなスピードで廃品など回収できるわけがないのである。
あれは一種のアートだ。

二台のスピーカーが叫ぶ声は、ずれている。
「・・・さまごかていないでごふようにな・・・」
「・・・しゃみにばいくてれびすてれおか・・・」

音をシャッターで切り取ることができるのなら、
「ごみ」「かに」「てば」「なく」「でれ」「ごび」なんて
風流に聞こえるんだろうけど、
悲しいかな僕の耳にそんな機能はなく、
混ざり合ったノイズだけが一陣の風と共に過ぎ去った。

2008/10/26

事実

終電一本手前、深夜一時を過ぎて、西荻窪に到着した。
自転車で自宅までの道のりを走っていると、突然「助けてください!」と呼び止められる。引き返してみると、80歳を過ぎたとおぼしきおばあさんである。腰は完全に曲がってしまっており、僕と目を合わせるのが大変そうだ。聞けば、自宅トイレで夫(95歳)が立ち上がれなくなってしまったという。

お宅に上がり、トイレへ直行。どうやら病気ではなく、座ったはいいが立ち上がる力を無くなってしまったらしい。幸いにも介護の心得が少しはあるので、抱きかかえるようにして身体を起こす。ベッドまで手を取り、そおっと横たえる。ようやく安心できたようだ。

「ほとんど寝たきりになってしまってね。自分では何もできんのですよ。」

慈愛や憐憫ではない感情。
今、ここに、あなたが、あなたたちが、そして僕が存在するという、事実。

通りがかりの人間を呼び止める声。
自らの重量を支えきれない身体。
部屋を占拠するテレビの大音量。
シーツに残された染み。
千円札をねじ込もうとするしわがれた手・・・

今、僕が生きていることの隣に、彼らは確かに存在していて、
その事実に、なぜか、泣きそうだ。

2008/10/19

月とアボカド

ふと冷蔵庫の上を見ると、褐色の物体が静かに鎮座していた。
買ったことすら忘れていた、あのアボカドである。どうりで最近、肩のあたりに脂っこい視線を感じていたのだ。危ない危ない。明日だともう取り返しがつかなかった。

買ったはいいものの、いつも迷うのは食べ方だ。ちょうど炊けたばかりのご飯もあるし、今日はアボカド丼にしようと決意。アツアツのご飯にアボカドを載せる。やや黄色みがかった薄緑は秋の草原をも思わせる。
しかし、何か物足りない。

そこで、贅沢にも卵黄だけを器の右上角に落としてみると・・・これはこれでお月様のようである。器の中には絵に描いたような中秋の風景が広がった。キッコーマン特選丸大豆しょうゆをかけ、ミツカン丸搾りゆずぽんずを少量加えると、ふわっと風味が立ち上がり、まさに「秋の実り」といった雰囲気。

だがここで、あまりの出来映えゆえに少し興奮しすぎてしまい、箸でかき回してしまった。すると名画は突然、阿鼻叫喚の地獄絵図に変わり、減色混合の法則どおり黄緑色のご飯になった。

きみどりいろのごはん

どう見ても、どう読んでも、おいしそうではない。

やはりお月様は天空で輝いているのが一番いいのであって、地上のものと交わってはならないのである。

2008/10/16

バカモノ

きのう一日
違和感を持って過ごした。
帰ってみると
シャツの表と裏が逆だった。

よおくみると
思いやりとやさしさも
他者と鏡も。

いろいろなものを混同していたバカモノ。
ようやく気付いたバカモノ。

2008/10/11

ナニモノ

読みたい本など何もないのに、また書店にいる。どうやら自分がナニモノかを知るためである。

I'll be your mirror

金曜夜、新宿発の込み合った最終電車に乗り込んだ。バイト帰りとおぼしき若い女性二人が、車両の真ん中で話し込んでいる。お互いの彼氏について最初は小声で話していたのだが、声がどんどん大きくなり、その容貌、年齢、経歴、家族構成、倒錯的嗜好などが一車両の間に知れ渡っていったのである。

鉄道各社は、携帯電話での通話を一律禁止するなど、訳の分からないルールを設定する前に、恋愛相談、痴話及び痴話ゲンカ、酔っぱらいの独り言等を禁止するべきではないのか。取引先に、あと五分でつきますから・・・と小声で平身低頭しているしがない営業マンを白い目で見る必要はないと思うのだ。

問題になっているのは、"私"の"公"への流出が顕在化している状況である。 ”公"すなわち"私たち"がかりそめ共有している空間に、姿形の存在しないものについてのコミュニケーションが入り込む、そこに生まれるのは"私たち"が無視されていることへの嫌悪感である。

"私"とは鏡だ。そして"私たち"とはそれを寄せ集めてできた、歪みのある大きな鏡である。大きな鏡の前では"私"は小さく映されるが、小さな鏡の前で"私"は純粋に拡大される。ましてやそれが向かい合い、合わせ鏡となれば、拡大した"私"同士が無限に増殖していく。

翻って鉄道各社はどうすればよいか。
ラッシュ時の女性専用車両を、平時はフリートーク車両にすればいいのだ。ケイタイも、ケンカも、合コンも、自由。その乱反射された"私"の様相はある種の表現になるかも知れない。その他の車両では声が80デシベルを越えると容赦なくタライが落ちてくるようにすればいい。ようやくそれで"私たち"の秩序は保たれる。

僕は結局、フリートーク車両に乗るだろう。喋るためではなく、ただ聴くために。

2008/10/09

忘れもの

白いシャツにアイロンをかけ、窓際のハンガーに吊した。
すると、日が急に照ってきて、みるみるシャツの輪郭が無くなった。

平衡?!・・・五感を通じて世界と接触することは、その境界において平衡を見いだすのと同義である。無意識に、釣り合う感覚を探っている。そのナイフの刃の上に、限りなく危ういバランスの上に、自らの身体をそっとおいてくる。次の瞬間、刃の上にあるのは自分でも他者でもない、得体の知れないものになっている。何なんだ、この感覚・・・今?!

一瞬静止したあとで日は落ち、シャツには輪郭が戻った。

ずっと探していた忘れものをとりにいく。

2008/10/07

米を研ぐ

日曜夕

化石化した調味料をすべて廃棄し自転車で西友へ向かう。多少割高でも一番小さいサイズを買うことを心がける。特売だからといって、うちは中華料理屋ではないのだから1リットルもの油は要らない。小振りのビンがカゴでガラガラ。だいぶ昔に、12色の絵具を買ってもらった時のよう。

鶏もも肉、玉ねぎも購入し帰宅。ビール片手に調理開始。まず米を研ぐ。これが出来なくちゃ始まらない、全ての基本である。炊飯器に放り込んだ後、ステンレス包丁を振りかざし、肉を切る、玉ねぎをスライスする。フライパンに胡麻油を熱しておく。ビールを二口三口でそのタイミング。食材を火にかける。

焼き色が付いたところで醤油、みりんを投入。本当はピリ辛にしたかったのだが、唐辛子が急遽、戦線離脱してしまったのでほんのり甘い味付けに変更。短時間ふたをして火を通すとともに味を浸透させる。その間になまくらになってしまった鋼の包丁"泉州源氣虎"をさっと研ぐ。名前は六甲おろし的に勇壮だが、実は果物ナイフくらいの慎ましさである。一人分の食事ならだいたいこれでいける。輝きを取り戻したところで食用油を塗っておく。

味噌汁は手を抜いて永谷園"ゆうげ"。それにしてもいまだに"あさげ"と"ゆうげ"の違いが分からない。結局ビールは250ml飲んだくらいでギブアップ。友人とだと一晩いけるんだけれど。アルコールをコミュニケーション手段としか考えてないのかも知れない。

出来たものをテーブルに並べてみる。良くも悪くも、今この瞬間の僕の全てである。生活しなければ。そういえば、どちらも"いきる"という字ですね。さめないうちに、いただきます。

2008/10/04

今できること

晴れ

洗濯機をまわす。
シーツを干す。
布団を広げる。

洗い物をする。
シンクを磨く。
冷蔵庫を拭く。

やらなくてはならないことはたくさんある。
この身体でできることは少ししかない。
だから今、コンロを拭く。
食器は明日、片付ける。
それでいい。

2008/09/21

あるいは海のように

新宿オペラシティで行われている「Trace Elements」を観た。
日豪の写真メディアにおける精神と記憶ということである。物質感をあらわにしたゼラチンシルバープリントからビデオインスタレーションまで、最近の映像を取り巻く状況をマッピングして俯瞰できるようになっている。

見終わって、インタラクティブとはなんぞや、という疑問が起こった。何回かに分けてこのことについて考えていきたいと思う。

私がそのことを意識し始めたのは、今回の出品作家の一人、古屋誠一の数年前の写真展「Aus den Fugen」であった。以下、お蔵入りにしていたその時の文章です。


あるいは海のように

古屋誠一展「Aus den Fugen」 ヴァンジ彫刻庭園美術館(静岡県長泉町)

一人の女性が写真の中からこちらを見つめている。時に微笑み、時に泣きそうな表情を浮かべながら、ただまっすぐこちらを見つめている。その視線の先には写真家であり夫であった古屋誠一がいた。”夫であった”と過去形で話さなくてはならないのは、ある日、彼女が自ら命を絶ってしまったからである。継続して続けられてきたこれらの記録は、「死」という断絶をもってぷつりと途切れてしまう。そのことを鑑賞している僕は知っている。知りながらこれら「遺影」と向き合うことになる。

写真はあきれるほど饒舌で、しかし肝心なことに関しては何も語ってくれないメディアである。その平面に定着された像を凝視するうちに、いつしか鑑賞という高みから引きずり下ろされ二人の関係に没入してゆく。

写真に遺された一瞬一瞬は生に満ちている。そのことが「死」という存在をより強く意識させる。生を見つめながらも意識は越えようもない深い断絶の中へ引き込まれてゆく。

やがて、どこからか賛美歌が流れて来た。演出かと思っていたら、どうやら同じ建物の中にあるチャペルで、偶然、結婚式が行われているらしい。一つの空間の中で結合と別離が交錯する。

賛美歌は流れ続ける。妻が死んでも写真家の生は続く。何かの手がかりを探るように、朽ちたウサギ、燃えさかる炎がフレームに収まる。これは断絶なのだろうか。何か別の光が焼き付けられているのではないか。

突然、一段と大きい拍手が鳴り響く。大勢の祝福を受けながら夫婦になったばかりの二人が姿を現した。

"ありがとうございます"

花嫁の言葉は、この夫婦が二人のみによって生まれたのではないことをあらわしている。このチャペルにおいては神によって、そして、ここに集ったものたちによって認証され、今、成立した。

そうなのだ。写真家の妻の存在も、大勢の人によって観られ、看取られ、その性質をゆるやかに変えてゆく。死は断絶ではない。新しい関係性の始まりなのだ。

外へ出ると春めいた日差しが眩しい。生まれたばかりの夫婦に花びらが降り注いでいる。やわらかい日差しに照らされて、その光景はこの世のものではないようだ。しばし茫然と立ちすくんでいた。

記念撮影が始まる。ふと全ての写真は遺影であることに気付く。写真は一瞬ごとに現在を過去に変換しながら、しわがれた手によって繰られる時を待っている。彼岸と此岸。豊饒なイメージを湛え、二つの岸を写真の海が同時に満たしている

2008/09/20

I'm home

夜になっていよいよ雨が降ってきた。台風の雨。小さな傘を差して、重い荷物を背負って、駅からの長い道のりを歩く。

と、目の前を歩いていた、スーツ姿のサラリーマンらしき男が、不意に左へ折れた。そこが彼の家だったのだ。新建材の真新しい壁、車一台置くスペース、オレンジ色の電灯が表札とドアを照らしている。彼はただいまと言うだろうか。

構わず歩き続けた。そこは僕の家ではないからだ。足は無意識に進んでいくが、どこに向かって歩いているのか、皆目分からない。雨を避けるためならこの傘で十分だし、肩の荷は死ぬまで降りないことを知っている。それでも無心に、家、らしきものに向かって歩いている。

街道を二つ越え、四つ目の電灯を右に折れ、10mほど行ったあたりで鍵を取り出した。

カチリ。

今、持っている鍵でドアが開く場所が、家だ。

2008/09/18

物語・一人語り

森美術館で開催されている、アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち、を観た。厭な夢を見たあとの、あの寝覚めの悪さ、そして安堵感が残った。まだ私は、こちら側にいてもいいのだ。

内蔵を思わせるぬいぐるみが痙攣を繰り返している。ねじられ、引っ張られ、不自然に変形してゆく。そこに何を見るか。死の必然か、不自然な生か。私たちがかつて親しんだ童話「ピノキオ」や、現代生活を脅かしている「狂牛病」など、様々なものが底流にある。この展示はそれらを解体・生成させながら延々と紡ぎ出される、現代の寓話だ。

それにしても、訪れた人たちの三分の一くらいは、音声ガイドのデバイスを片手に作品に接している。確かに正確な情報を知りたいという気持ちはわかる。作者の正式な見解や、識者の批評は私たちの理解を助けてくれる。

理解?!

生から死に至る私たちの物語の中に、果たしてそんなものが存在しただろうか?共感、反感、予感、猜疑・・・グレーゾーンにあるものばかり。少なくとも私の場合はそうだ。完全な共感を理解と呼ぶのか。双子でもそれは無理だ。たぶん。いや、これはきっかけ、とっかかりなのだと思う。でも、定説としての物語ならいらない。

古来の寓話は理解とは程遠いところで終わる。善悪の判断が曖昧で心の中がもやもやする。赤ずきんは食べられる。キリギリスを誰も助けてくれない。ライオンが肩を聳やかす。

なぜ?!

それでもハッピーエンドのハリウッド映画ばかりを見せられるよりましだ。たとえ悪夢であっても、私たちには、私たちの自身の物語を疑似体験する場が必要だ。

壁ににだらんとかけられた、クマのぬいぐるみがある。
「これなーに」
女の子が反射的にそれに触れ(てしまっ)た。両親は叱ったが、そこからこそ彼女の本当の物語が始まるのだ。

2008/09/16

月とUFO

二件隣の部屋には、”きみ”さんというおばあさんが住んでいる。東京に来て初めて友達になってくれたのは、きみさんである。アパート住人の動向から、この地域をうろついている猫の消息まで、ありとあらゆる情報を把握している。きみさんとミキくんはよく立ち話をするのだが・・・

「この前、十五夜だったじゃない?」

そうなんだ・・・全然意識してなかったです。

「わたしね、ゆーほー見たことがあるのよ。あれは10年前だったかな。」

えーっ、話が飛躍しすぎ!ゆーほーって、あのU・F・Oですか?

「そうそう、そのゆーほー。それがちょうど十五夜の頃だったのよ。突然、聞いたことのない金属音がしてね。空を見てみたわけ。お月様が綺麗でね。そこに浮き雲が二つ浮いてた。その中に見たこともないオレンジ色の光が三つ輝いてるのよ。最初はサーチライトかと思ったけど、そんなものは戦争中にいくらでも見たから違いぐらい分かるわ。で、その二つの雲の間を光がパッと瞬間に移動しちゃうのね、不思議よね。」

えーっ、それは明らかにUFOですよ!で、どうしたんですか?

「綺麗だなーと思ってね、お風呂に浸かりながら二時間半ぐらいずっと見てたのよ。」

えーっ、のぼせちゃいますよ!で、どうなったんですか?

「フッと消えちゃったの。ゆーほーも月見て踊ってたのかしらね。」

(絶句)

といった具合で、とても楽しい。

UFOがウソかホントかなんて問題じゃない。彼女が、目に映ったものを信じている限り、これは紛れもない真実なのだ。そして僕も、そのイメージを信じている。

2008/09/15

胃弱な二人

9/14、新宿東口、バー・カウントゼロ、朝5:30。

外に出ると、湿気で飽和した空気が地上付近で淀んでいた。夕食も食べずにビールを呷り続けてしまったせいで、身体もいやに重い。駅までたどり着けるだろうか。

同じく隣で青い顔をしながらトボトボ歩いている胃弱の青年Hが、「こういう雨の降る直前の感じ、結構好きなんですよね。風景を近く感じますよね。」とセンチメンタルなことを言う。

確かにそうだ。空間が緻密に水の微粒子で満たされている。肌触りを通して自分と風景とがつながっているように感じる・・・などと、かすむ都庁を遠い目で見ながらロマンチックにつぶやいてみたのだが、「いや、ただ単にこのフラットな感じが」と、にべもなくおっしゃる。全く油断ならないのである。

彼らとは織野紀見という個人誌を通して知り合った。西荻の古書店に置かれていたそれを見て、うわーやられた。と思った。そして奥付を見ると、あれ、発行所の住所がなぜかウチと全く同じ。部屋の号数だけが違う。アパートの西端から東端までだからせいぜい十歩ぐらいしか離れていない。突然訪ねるのもなんやしな→メールでも打とか→なぜか不通→じゃあ文通→集合ポストへ投函、という流れで彼らとコンタクトを取った。そのうちグループ展の案内が来て会場で初対面、相手が女性ならちょっとした恋愛ドラマにもなりそうだ。なんせこの広い西荻で、知らず一つ屋根の下に住んでいたのだから。もちろん世の中そんなに甘くはない。ぼそりぼそりと話をしながら、なぜHはカーディガンに雪駄なのだろうと思っていた。

さておき、物事を自分の目と言葉で誠実に捉えたいと希う僕にとって、Hは要注意人物だ。捕捉したと思った時には、もう別のところにいる。話がどこまで本当か分からない。もしかすると天性のペテン師かも知れない。明らかに自分とタイプは違うが、何だかんだと仲良くしているのは、互いに補完しあえる部分があるからだろうか。

Hの写真は、危険で卑猥でインモラルだ。しかしそれは彼の並外れた正直さからくるもので、その領域ではうわべの誠実さなど全く通用しない。ただ瞬間、瞬間に変化し続ける意識と目前の被写体との間にフィルムがあるだけ。そういう意味で、彼の写真は驚くほど真っ当である。

"普通"に憧れているらしい。なのに
自閉症に興味があるらしい。なぜか
缶ビールの飲み口をへこませると旨くなると信じているらしい。
実に捉えどころがない。

いや、そもそも捉えるのは不可能なのだ。会うたびにHこと、秦雅則という新しい人間と出会っているような気がする。その出会いは、僕にとっても至福だ。

2008/09/14

回復

回線
復旧



2008/09/13

切断

きのうの夜から、ネット回線が切断されたままだ。原因、不明。とりあえず、この文は携帯からアップしている。

ルーターやら配線やらをいじってみても、ソフトの設定を変えてもダメ。些細なことが一つ欠けても、デジタルのコミュニケーションは破綻してしまう。この携帯も、最近は電池が弱って一日と持たない。

ということで、もし急ぎの用があれば、速達か会いに来るのが確実です(笑)

2008/09/10

本を引く

先日、八幡山にある大宅壮一文庫へ行ってきた。彼は生前、雑誌・週刊誌を蒐集していたのだが、その遺志を引き継いで、現在までに69万冊が所蔵されるに至った。もともとこの類の本は「読み捨て」の傾向が強く、あまり後世に残されることはない。しかし専門書と違い、その時代の空気を一杯に纏った貴重な資料であることを見抜き、集めるばかりでなく一般に公開しているのだから、その志には頭が下がる。閲覧と複写で料金が発生するが、昼食を1回抜いても訪れる価値は充分にある。

この文庫の主役はもちろん本というモノなのだが、要(かなめ)は総目録とコンピューターにより体系化されたデータベース、そしてその検索システムだと言えるだろう。そもそも雑誌というのは、専門分野から雑事まで幅広い分野の記事の集積である。専門書のように書名だけで検索するわけにもいかない。表紙に載るような特集記事から末端のコラムに至るまで、人名・件名・テーマなど470万件の索引から検索可能なのだからすごい。 

そうやってある写真について調べていたのだが、実際に本を手に取ってみると記事はしょうもなくて、隣ページの「ニューヨーク書店事情」の方がおもしろかったりすることもある。これは、画面の上だけでは起こりえなかったことで、紙が編まれた本という形式ゆえに演出されたおもしろさだ。

結局、精緻な検索システムによって提供されるデータと、アナログな物質としての本は、どこかで補完しあっているのではないだろうか。かなりの精度でお目当ての回答に辿り着くことができたとしても、完全な解を与えられたような気になってしまっては、知的には行き止まりである。その先は自ら探さなくてはならない。システムが高度化するにつれてますます、検索から思索への移行が求められている。そのきっかけは、身体を通して得たひらめきであったり、偶然であったりする。

2008/09/07

闇黒

江戸東京たてもの園、という野外博物館がある。都内に存在した、江戸時代から現代までの建物を復元・展示しており、東京都が運営する美術・博物館では三本の指に入ると勝手に思っている。

ここに、吉野家(よしのけ)という藁葺きの農家がある。江戸時代後期に建てられたものらしい。雨風、そして日差しを防ぐ深い軒が、空間を抱き込んでいる。遊びに来た子供は「超くれーんだけど」と言いながら、おずおずと中へ入っていく。確かに、明るく照らされた現代の生活からすれば、超が付くほど暗い。僕もそろそろと土間へお邪魔するとしよう。

わずかに裸電球が灯っているおかげで、足下は何とか見える。上がり框(かまち)に腰掛けてしばらく、その空間に身を浸してみることにした。囲炉裏では火が熾り、煙がゆらゆらと漂っている。その端でぼそぼそ話されている言葉が、いやにはっきりと聞こえてくるのが、不思議だ。

目が慣れると、色が見えてくる。鈍く光る三和土(たたき)の黒、手垢の染み付いた柱の黒、煙に燻された天井の黒・・・。暗い、という印象は、ただ光が少ないだけではなくて、そこに存在する様々な黒が響きあって生まれていた。素材・行為・風化・時間といった別々の要素が、互いに絡み、共鳴して、ある一つの「暗さ」に収束する。その豊かな空間は、明るく照らし出されれば、おそらく一瞬に消えてしまうだろう。

アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。
人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
太宰治

フロッタージュ

さっきから待合室で順番を待っている。
もうかれこれ20分になるが、自分の名が呼ばれる気配はない。

ふと目を上げると、白い杖を持った女性が、点字の本をめくっている。
微細な突起群の上に指先を滑らせながら、
彼女の目は、開いている。

隣で楽譜を持った女性が、暗譜を試みている。
机の角をあたかも鍵盤のように叩きながら、
彼女の目は、閉じている。

指先でこすり取っている感覚は、瞬時に視覚や聴覚を呼び覚ます。
その行為は、記憶のフロッタージュだ。

2008/09/02

風土

近頃の雨の降り方を見ると、急速に気候が変化しつつあるのをいやが応にも感じる。日本は温帯気候に属する、と地理では習ったけど、これからは亜熱帯に書き直されるんですかね。

そもそも、自分は都会に住み、屋根の下で空調を効かせて生活しているわけだから、そういうものとは疎遠になっているはず。それでもおかしいと気付かされるのは、もう取り返しの付かないところまで来てしまったということなのだろうか。

風土、とはよくいったものだ。「住民の慣習や文化に影響を及ぼす、その土地の気候・地形・地質など」と辞書にはある。風と土。その感触を忘れて久しい。そういった、微細かつ巨大なものに、当たり前に私たちの精神は影響を受け、暮らしは規定されてきた。生きる感覚そのものといってもいいかもしれない。それらを封じ込め、隔離することで「快適」という名の都合の良い自由を手に入れた。が、その反動は別の形で人類を侵蝕しつつある。

エコの皮を被って、連日連夜メディアが名実を叫んでいる。確かにそれは大事だよ。でも、まず、自分で感じることからしか始まらないのでは?

遍路は辺土が変化したものだという。都から遠く離れて旅人が感じたものは何だったか。初めて訪れる土地で最初に感じたのは、誰かのつけた地名ではなく、風の匂いであり、土の感触だったはずだ。

2008/08/27

カメラ

性懲りもなく、またやってしまった。
カメラを買ってしまったのだ。

言い訳をしても始まらないので正直に言いますと、前々から小さいデジタルカメラが欲しかったのですね。高画質を求めているわけではないのでポイントは3つ。
手のひらサイズ、かつ使いやすい。
デザインがぐっとくる。
とにかく安い。
以上。

で、Yカメラをウロウロしているうちに見つけてしまったのですね。C社のデジカメ。昔からそういう傾向があるのだが、ちょっとデザインし損なったようなものに惹かれてしまう。それは明らかに最新のメタリック&スリム路線とは違う、プラスティック&メタボといった感じで、全体に鈍重な印象。これはなにかある。
触ってみると操作性を重視していてなかなか使いやすいではないですか。800万画素・マニュアル撮影可。機能も十分。しかし値段が27,000円。これでも高い。
ぐっと我慢して、家でネットを使い検索してみると、あった、驚異の21,000円。気付いたときには注文ボタンを押していたのだった。

届いてからは、いろいろと捏ねくり回して遊んでいるが、いかんせん付属のメモリーカードは容量16M。10枚位しか撮れない。また出費が・・・。

2008/08/23

場所

携帯からも投稿できるということでテスト、してみたがうまくいかず。結局パソコンから投稿する。

浮遊しながら文字を打ち、写真を撮り、それを一瞬で公にする時代。場所という概念がどんどん希薄になっていくのではないだろうか。今・ここ、が消滅する。場所は意識と直結している。このスタイルが産み出す表現とは何なのか。それは自分も体験してみなければ分からない。

奇しくも、荻窪の喫茶店で、西田幾多郎の「場所論」を読む。大変なものに行き当たってしまった予感。

2008/08/18

くずれる

台所で乾かしていた食器の山が、
音を立てて崩れた。
何かが壊れた。
瞬間、隣の部屋にいながら、そちらを振り向いている。

物が、くずれる。
ヒトはどうしてその瞬間から目が離せないのだろう。
恐怖?快楽?

位相が、ずれる。
物質は崩壊すると同時に生成している。
その瞬間を撮る写真家もいる。

たとえ目前で何かが壊れなくとも、
見えなくとも、聞こえなくとも
その瞬間は世界に偏在している。

ないものだろうか。

その予兆としての写真って。

2008/08/12

サラウンド

日陰を求めて細い路地を歩いていると

"カァーン"
金属バットの乾いた音が
四方から同時に聞こえてきた。

今、電波を通じて、日本中が白球の行方を追っている。
そして、あの物悲しい音を聴くと決まって
幼少の頃見た、夕焼け空を思い出す。

夕方になると
その球場の煌々と輝く明かりが見え、
大歓声が風に乗って流れてくる。
そういう空気に包まれて
僕は育ったのだ。

2008/08/08

自由

その犬はひたすら地面を掘っている。
爪ががちがち石に当たる。
ぴんと張った鎖が彼の喉を締めつける。

ねぇ、もうやめなよ。
何か出てくるのは昔話の中だけだよ。

それでも犬は掘り続ける。
息遣いが荒くなる。
ときおり鎖がじゃらんと音を立てる。

どれくらいその営みが続いたろうか。
とうとう犬は掘るのをやめた。
頭はみじめに垂れ、尻尾はべったりと地面にへばりついている。

そらみろ、
何も見つからなかったじゃないか。
そういうのを無駄骨というんだ。

しかし、彼はすでに見つけていた。
杭を中心とする円、以外の世界を。
彼にとって自由とは、完全なる球体だったのだ。

彼は無心に眠った。
そして、一番、”何か”を期待していたのは、
ガラスに凭れかかってそれを見つめている
自分である事に気づいた。

2008/08/03

アツイ話

最近の東京は暑い。
特に今日(8月3日)は温度・湿度共にハイテンションだ。京都から来た人が暑いというのだから間違いない。そんな中、東京大丸で行われている「cool black展」(5日まで)を観た。僕は写真係。作品が力を持っているだけに、撮影はとてもエキサイティングだった。

一 日が終わって、そのクールな作家さんたちと月島で夕食をご一緒することになった。撮影機材の入ったばかでかいスーツケースをガラゴロと引っ張りながら、も んじゃの店を物色する。偶然にも、祭りの日だったらしく、道行く人はもうだいたい出来上がっていて、通りを赤く染めている。

あ てもなく一軒の店に入り、皆で使い慣れないヘラを振り回していると、現れたのは、生まれも育ちも東京月島のおばちゃん。祭りの余韻も醒めやらぬ様子で話し 掛けてきて「合縁奇縁っていうじゃないの。ねぇ。ちょっとここにビール4つ持ってきてあげて!!」とただでさえ狭いボックス席に割り込んでくる。

ホントに今日は暑かったですね。
「しかもこの通りはね、東京の中でも五本の指にはいるくらい温度が高いって言うよ。なんたって80軒も、もんじゃの店が両側に並んでるんだから」
今日はどういうお祭りだったんですか?
「住吉神社例大祭って言ってね、大阪の住吉神社から分けてもらった神様を祀るお祭りさ。なんたって三年に一度だからね。盛り上がるよぅ。八角の御輿が出てね。そりゃあもう勇壮なんだから。」

ん、そういえば、おばちゃん、声がガラガラだ。掛け声やら応援やらで声が涸れてしまったらしい。しかし、そのボルテージは止まることを知らない。
目の前でじりじりともんじゃが焼けている。酔いがふんわりと回ってきた。「もんじゃとは混沌を食すものなり」訳の分からない格言が頭をよぎる。

店を出るときになって、おばちゃん手をぎゅっと握りしめて離してくれない。最後は全員と抱擁。おばちゃんやっぱり離してくれない。
いやはや、月島は熱い。

2008/08/01

背水

水の上で身体を完全に伸ばし、首、肩、腕、腰・・・
と無駄な力を抜いていくと、

音を立てて関節が緩んでゆくのがわかる。
呼吸が落ち着くと、自然に耳のあたりが喫水線に定まっている。

次の瞬間、息を一杯に吸い込む。
体幹が浮力を持ち、視界が変化する。
身体はわずかな姿勢の変化や水流によって容易に翻弄される。

そして、息を吐き出す。
聞こえる音が劇的に変化する。
身体は腰をアンカーとして沈み込み、安定する。
口だけが唯一外界との通路として水上に出ている。

そして、また、息を吸う。

ある時、この感覚を歩くときに使えないか、と思い立った。
垂直に作用する浮力を、水平に感じてみたらどうかと。
つまり、呼吸により水上では浮力が生まれるように、
陸上では前進する力が生まれるのではないか。

立ったまま、背中に水をイメージする。
呼吸をしつつ、前へ。
なかなかうまくいかない。意識しすぎなのだ。苦しくなってくる。
でも、忘れた頃に我知らず実践していたりもする。

呼吸が、周囲の感覚をも取り込むことであるとするならば、
水を背にして、いつも歩いていたい。
それは本当は、人間にとって限りなく自然な感覚であると思うのだ。